東北セミボラ企画に参加して考える、被災地の復興は終わるどころか始まってさえいない場所もあるという現実。

 先月、Web広告研究会で開催された第三回東北セミボラ企画に参加させて頂きました。
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 東北セミボラとは東北のいまの復興(ボラ)とこれからの復興(セミ)のため、セミナーとボランティア活動を行うというWeb研が作った造語。
 ボランティアだけでは何となく行きづらいという私のような優柔不断な人間に用意された企画と言っても過言ではない、ということで、今回タイミングが合ったので思い切って申し込みました。
 何しろWeb広告研究会が主催名だけあってセミナーの講師も超豪華。
 ad:tech Tokyoで締めの基調講演をしていたヤフーの宮坂社長が基調講演を行い、HTML5のパネルディスカッションに、プロデューサーの藤井 雅俊さんの町おこし講演まで、普通に東京でやっている通常のセミナーより豪華と言っても失礼ではない構成になっています。
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 で、私自身は実は打ち合わせの関係でセミナーには全く参加できず、懇親会から参加のセミボラならぬノミボラになってしまったわけですが。
 セミナーの翌日に実施されたボランティアで感じた感想を、こちらにメモしておきたいと思います。
 今更ながらの告白になりますが、私自身は東日本大震災の後、一回も被災地に足を運んでいませんでした。
 周りのボランティアに参加した人に勧められたこともあり、行こうかどうか何度か悩んだのですが、結局なんとなく流されるままに行かずに済ましてしまい、気がついたら1年半以上たってしまっていたというのが正直なところです。
 震災の直後こそ、下記のようなブログを書き、震災関連の情報サイトの集約に努めたりもしましたし。
震災で大変なこんな時だからこそ、自分は自分のできること、継続できることに注力しようと思います。
 
 今年の3月には「震災復興支援サービス大賞」なる企画の運営事務局もさせて頂きました。
震災からの復興に、ソーシャルメディアやネットを通じて個人で貢献できることはまだまだあるはず
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 ただ、何となく自分のできることというのはソーシャルメディア周辺による支援だから、現地に行かなくてもソーシャルメディア経由で支援すれば良いんだ、と自分に言い聞かせていたところがあるのも正直なところ。
 そんなこんなで気がついたら1年半も経ってしまうんですから人間の意識というのは恐ろしいものです。
 震災復興支援サービス大賞の時にも、さんざん様々な人から復興は終わっていない、震災は終わっていないという発言を耳にしたにもかかわらず、自分の中ではそうは言ってもある程度目処はついているんだろうと、勝手に思っていました。
 いや、自分のために、そう思い込もうとしていただけかもしれません。


 今回私が参加したボランティアは、東松島市宮戸にある大浜海水浴場のゴミ拾いでした。
 まず集合地点となっていた野蒜駅が、未だに廃駅となっていて津波に倒された電柱がそのまま残っていたり、大浜への道沿いに廃墟と化したままの中学校があったり、海岸沿いに大量のがれきがつんであったりという光景だけでも、津波のすさまじさを感じることはできたのですが。
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 私が一番ショックを感じたのは、その後。
 その日、とても天気が良かったのもあり、大浜に行くまでの道すがらの景色は実にのんびりしたものでした。
 松島を構成する小高い山々と、その間にある広い原っぱ。
 実にのんびりした良い原っぱだなぁなどと勝手に思っていたんですが。
 後で聞いてショックだったのは、実はその原っぱのほとんどが、もともとは家があったところだった、と言う点です。
 大浜は地元でも人気の海水浴場だったそうで、道沿いには一般的な海水浴場の近くにありがちな民宿だとか、海の家だとかがあったそうなんですが、その一帯の家々は基礎を残してほとんどが流されてしまったり半壊してしまい、取り壊され、後には空き地だけが残り、そこに一年半の間に草が生えて原っぱになった、ということなんです。
 確かに冷静に考えたらもともとは松島周辺の山道の中なわけで、道沿いにキレイに原っぱばかりがあるのは不自然なんですよね。
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 こちらの海岸の写真にも家は左端に一軒しか映っていませんが、この家はたまたま工場の裏側にあったから津波の直撃を免れて残った家だそうで、それ以外の30軒ほどあったはずの家々は今やあとかたもありません。
 ぱっと見、空き地にしか見えないと思いますが、ここが実は通常の海水浴場のそばによくある海の家とかが並ぶ街だったのかと思うと、そのギャップには正直戸惑いを隠せませんでした。
 もちろん、津波が全部持って行ってしまったとか、いまだに何にも手をつけられていないところがある、という「言葉」や「情報」はメディアを通じて受け取っているのですから、この状況は想像できたはずなのですが。
 復興という言葉から、どこか私は津波に流された跡地に次々に家が建ち始め、震災の前の暮らしが始まりつつあるのをイメージしていたのでしょう。
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 でも実際に、津波が町ごと流してしまっていたら、一人や二人だけそこに戻ってきたところで生活もできませんから、家を建てようと思う人も少ないわけで。
 目の前に拡がるのは当然と言えば当然のショックな光景でした。
 何から手をつけて良いのか分からない、というのが実際にどういうことなのか、現地に行き、見渡す限り拡がる原っぱを改めて眼前にして、ようやく少し飲み込めてきた、というのが正直な状況でした。
 私たちが行った海岸のゴミ拾いにしても、当然これまでにボランティアの方々が大勢やってきて何度も清掃をしているんだそうですが、今でも海から瓦礫が流れついてくるのが現実。
 
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 実際、私たちの清掃の過程でも、タイヤだとか、ロープの固まりだとかが海辺に埋まっていたりしましたし。
 目の前で消化器が海から流れ着いてくるのを目にすることになりました。
 もちろん、被災地である東北の全てが絶望に包まれた状態なのではありません。
 たまたまトイレをお借りしに寄った月浜の仮設住宅では、近くの海苔工場の稼働が再開しているそうで、海苔工場で働く方と言葉を交わす機会があり、ホッとする会話をすることができましたし、ボランティアの帰りにバスが通過した松島では、昔自分が来るまで通ったままの松島の町が残っていることを確認でき、たくさんの観光客が駅にもいるのを確認し、日常を感じることができました。
 また仙台駅周辺は、飲み屋も混雑しているようですし、一般に言われる震災による復興バブル的なモノがあるのも何となく感じることができました。
 ボランティアをした大浜から見る景色は震災前と変わらぬ美しさを感じさせてくれましたし、そのお陰で今回の原っぱの事実を見て受けたショックはいくばくか和らいだのも事実です。
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 ただ、1年半を経てもまだ、五合目にも届いていないであろう復興のプロセスや、丸ごと破壊された街を「復興」することの難しさや復興そのもののあり方の是非について、改めて骨身にしみて考えさせられた一日でもありました。
 もちろん、その事実を私が知ったところで、皆さんにこうしてブログを通じて伝えたところで、私たちができることというのは被災地の現実を考えると、本当に小さなことしかできないという現実も改めて突きつけられるわけですが。
 東日本大震災が発生した国に住む日本人としては、とにかく震災の現実を風化させず、現実を認識し続けていく、ということが最も大事なのかもしれないな、と改めて感じています。
 震災の現実を認識していなかった私に、その機会をくれた東北セミボラの企画者の皆さん、支援者の皆さんに、改めて御礼を申し上げます。
 
 こうしたみんなの小さな活動の積み重ねが、よりよい被災地の復興、ひいてはよりよい日本のあり方を作るきっかけになったと振り返ることができる日が来ることを祈りながら、自分は自分のできることをできる範囲で続けていきたいと思います。
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