ネット上の議論が半永久的に残ることの価値

 「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんと切込隊長BLOG(ブログ)で、非常に興味深いやり取りがされています。


 まず湯川さんの「日本でネットとリアルの社会が分断されている理由」というエントリから始まり、切込隊長が「メディアとネットに「格差」があるという議論はおかしい」と書き、さらに湯川さんが「切り込み隊長に物申す」と返して、切込隊長の「新聞業界がこの先生きのこるには」という書き込みになり、湯川さんが「超どうでもいい議論の続き」と一度締めている。

 まぁ、素人の私が議論自体に口をはさめることは何も無いのですが、ちょっと違った視点からこのやり取りに非常に感慨深いものを感じてしまいました。

 妙な縁で、私はお二人ともにお会いしたことがあるんですが。
(まぁ湯川さんに会ったのはつい先日ですし、切込隊長に会ったのは5年以上も前なので向こうは覚えてないだろうというレベルですが)

 そのときの印象から言うと、二人は日本全体の中で言うと実は立ち位置は近かったりするんじゃないかと思ったりします。

 
 多分、切込隊長が書いているように背景の違いが視点の違いを生むのでしょう。

 湯川さんは既存メディアの中にいて、ブログを中心とした新しい流れに可能性を感じ、それに対応できない既存メディアに嘆いている立場という視点。
 切込隊長はネットの先端にいて、ネットの最前線で旗を振る人たちの良いところも悪いところも全部見てきて、少しブームに対して引いた立場という視点。
 というのが違いになるのでしょうか。
 
 視点の違いと議論の入り方がちょっとずれると、この二人でさえこういう熱い議論になるんだなぁというのが率直な感想ですが、その議論の過程を自分のペースで読むことができるブログの仕組みというのにも、また改めて今後の可能性を感じてしまいました。

 やはり、これもテキストという状態で議論が残るからだなぁと思っていたら、この記事とちょうど同じタイミングで、Hotwiredの佐々木さんが「インターネットが取材を変える日」で、取材の過程を掲示板に公開したという興味深い逸話を紹介しています。

 佐々木さんが書いているように「かつては週刊誌にしろ新聞にしろ、あるいはテレビ報道にしろ、「書き飛ばし」「報道しっぱなし」が当たり前だった。」ですし、読み手である私たちも一つ一つの記事については怒りを感じたとしても無力感のまますぐに忘れるのが当たり前でした。

 ところがネットにおいては今回の湯川さんと切込隊長のやり取りのような議論が、気が向いたときにいつでも(二人が消さない限り半永久的に)、しかも基本的に無料で振り返れるようになってしまっているわけで。

 湯川さんの「議論は、そこから自分が学ぶため、また相手の学びを手助けするためにするものである。」という信念には私も賛成ですし、ニッチな分野の「論評」の集合体という点においては、やっぱりネットの価値は高いなぁと改めて思わされた一日でした。

 ちなみに、佐々木さんが最後に「だが現状では、インターネットメディアの一般社会への影響力はあまりに低い。」とも締めくくっているのも象徴的です。
 やっぱり切込隊長が書くように数十年スパンなんですかね・・・