参加型ジャーナリズムと個人的な経験

ネットは新聞を殺すのかblog 年末進行中の「どうでもいい議論」
を読んで。

 先日「ネット上の議論が半永久的に残ることの価値」で紹介した、切込隊長と湯川さんの議論は、実はまだ続いています。


 今回は、湯川さんの「参加型ジャーナリズムは技術革新待ちの状態」という記事に、切込隊長が「参加型ジャーナリズムが発展しないのは機能の未整備が理由ではないと思う」とコメントし、湯川さんが「年末進行中の「どうでもいい議論」」と返しています。

 
 相変わらず、素人の私が割り込める隙はないんですが。
 やっぱり今回も、二人とも正しいんだろうなぁと思ってしまい、サイドを選べないので更に議論に参加できずにいたりします。
 特に自分の体験を振り返ると。

 まず賛同するのは切込隊長が書いているように、技術革新が根本的なものをほとんど変えていないという点。
  
 私が始めてインターネットやニフティのフォーラムに触れた時、個人的には場所や企業を超えたメンバーと議論したり情報交換できることに、ネットの大いなる可能性を感じたものです。

 しかし、その頃からはや10年。
 たしかに2ちゃんねるやブログのようなものを通じて、ネット上の議論への参加者は大いに増えましたが、本質的なメディアや社会の仕組みは未だにほとんど変わったような気はしません。

 でも、湯川さんが書いているように、技術の進化が参加型ジャーナリズム的なものの素地になる可能性も否定できません。

 例えば、今回の二人の濃い議論が成立するのはおそらくブログのトラックバックという仕組み(技術)のおかげです。
 もし、この議論が2ちゃんねるのような掲示板形式のもので行われていたら、二人の議論は、他の多数の参加者の書き込みや雑音に埋もれてしまって、おそらく成立しなくなっていたでしょう。

 さらにブログという個人サイトの仕組みが、その書き手にミニメディアと呼んでいいほどの影響力を与えることがあることを、切込隊長自身が体現しています。

 実は切込隊長は、7年ぐらい前、私がニフティのフォーラムの初心者だった頃に、優しく(厳しく?)いろいろとアドバイスをしてくれた、私にとってはいわば師匠的存在の人の一人で。
 仕事で行き詰まってたこともあり、名古屋からわざわざ東京のオフ会に顔を出したりしていた私に、私が井の中の蛙であることを思い知らせてくれた人たちの一人でした。

 その後、私は会社で職種が変わったこともあり、企業内部を向いた活動に力を入れるようになって異業種交流会的な活動からしばらく離れてしまうのですが、最近になって切込隊長のブログを見つけ、先日の議論に懐かしさを覚えてついトラックバックした次第でした。

 なんだか昔話が長くなりましたが何を言いたいかというと。

 特に私が印象的だったのは、先日の私の書き込みに対して切込隊長が返事を書いてくれたところ。
 翌日・翌々日の飲み会で「徳力さん、切込隊長からコメントもらってましたよね」と何名もの方に(驚きも含めて)言われたことです。

 個人的には、あの切込隊長のコメントは、私がニフティのフォーラム初心者だった頃と全く同じような感じで、懐かしいやら嬉しいやら一人で感慨に浸っていたんですが。

 周囲の反応はその当時とは全く異なっていたわけで(当たり前ですね)。
 フォーラム時代との、確実な時代の変化、ネットの影響力の増加の片鱗のようなものを感じてしまったわけです。

 そう考えると。
 切込隊長が書いているように、まだまだネットメディアや参加型ジャーナリズムが主流になるには欠けているものがあるのも感じますが、
 湯川さんの主張のように何かの技術がきっかけになって、どこかニッチな分野においてネットメディアがいい線いく可能性って、案外あるんじゃないかなぁと思ったりするわけです。

 なんだか相変わらず考えがまとまりません。

 とりあえず、自分がFPNをやっているのもあの頃のニフティのフォーラムに出会ったときの感動が忘れられないからかもしれないなぁ・・・と、そんなことを感じてしまった今日この頃です。