Blogging Editor for Best Daily Newspaper on Web speaks to the Guardian’s successを聴いて。
PodTechでイギリスの新聞Guardian紙の編集者のインタビューが公開されていました。
Guardianというのは1821年イギリスのマンチェスターで創刊された歴史のある新聞です。そういう意味では、てっきり新聞が大変だと言う話になるのかと思ったんですが、正反対。
なんでも彼いわくGuardian紙は「世界で最も先進的な新聞」と自負しているそうで、実際ネットやブログに対する取り組みも非常に歴史が長く、発言内容も自信にあふれていました。
そんな中、個人的に非常に印象に残ったのが、彼の「これまで『記事』は最終製品だったけれども、今はプロセスの1ステップに過ぎない」という趣旨の発言。
おととい、うだうだとオーマイニュースとソーシャルメディアについての記事を書いていただけに、なるほどと腹に落ちるものがありました。
従来のマスメディアにおいては、「記事」が「最終製品」です。
自社の製品である記事の集合体である新聞や雑誌を有料で買ってもらったり、その製品に対して企業に広告を出してもらっているわけで、当然記事は完成品であり最終製品。
いかにその製品の質が高いかというのが、一つの価値基準になるのは当然です。
そういう意味では、製品を生み出したアーティストである記者にとって、一つ一つの記事は一つの作品のようなもので、その記事に問題があったりバグがあったりというのは許されない行為でしょう。
これがソーシャルメディアの世界では、記事はもはや最終製品ではなくなってきています。
もちろん、その記事一つ一つが読者の目に触れる段階では最終製品として受け取られるのかもしれませんが、実際には記事が登場した段階から更に世の中の会話は先に進んでいるわけで。
ある意味、ニュースサイトの記事も、ブログの記事も、世の中の会話の一つのプロセスが文字になっているだけ。
もちろん、ニュースサイトの記事の方が一次情報が多いだけに会話のスタート地点になることが多いわけですが、広い意味で捉えればGuardianの編集者が言うように全体の会話の「プロセスの一つのステップ」に過ぎないと捉えることができる用に思います。
ある意味、最近のWebサービスのように、一つ一つの記事をベータ版として世に出している感覚に近いかもしれません。
記事の場合には一つ一つを直すわけではなく、将来の記事に読者のフィードバックを反映させていくイメージでしょうか。
このスタンスの違いは小さいようで結構大きい気がします。
記事を最終製品と思っているか、プロセスの一つのステップだと思っているかで、一つ一つの記事に書けるコストも違うでしょうし、記事に対する批判やバッシングなどのフィードバックに対する心構えも違うでしょう。
当然、素人のブログの記事が話題の中心になることは確率としては低いわけですが、実際には、素人の一つのブログの記事が結果的に会話を巻き起こすこともあるわけで、それを狙うにはやはり一つ一つの記事の質を上げる努力をするよりも、大量の話題を提供していくつかがたまたまヒットすると言うアプローチが有効な気もします。
ただ、マスメディアがソーシャルメディアに転換する上で難しいのは、まだまだ多くの読者や広告主がマスメディアのブランドでの全ての情報発信に最終製品としての品質を求めがちな点のような気もします。
特に日本ではオーマイニュースの記事の質に対する批判と同じように、CNET読者ブログにしても、ITmediaオルタナティブブログにしても、「マスメディアの看板でレベルの低い記事を書くな」という類似の批判は良く目にしましたし、過去にもCNETの看板ブログのいくつかがたまに激しく批判されていたのも記憶に新しいところです。
個人のブログですら「知りもしないのに」とか「よく調べもしないで」とか「すでにこの議論は他で見た」というような、ブログにマスメディア品質を期待するような批判を目にすることが多々あります。
アメリカやイギリスの事情がどうなのかはよく分かりませんが、日本でこのあたりの空気が今後変わっていくものなのか、それとも日本はこういう文化だということなのかが気になるところです。
みんな「Wikipedia」でいいじゃないですかね?
冷酷な“既出です”と、MBAホルダーのような“根拠=ソースは?”を目にすると哀しくなります。