シルクドソレイユが教えてくれる、本当に全てが一流ということの意味

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 先日書いたUNIQLO MEETS CORTEOの記事ですが、ユニクロの話ばかり書いてしまったので、肝心のコルテオとシルクドソレイユ(シルク・ドゥ・ソレイユとちゃんと書くのが面倒になったので日本語読みでご容赦を)についても触れておきたいと思います。
 ドラリオンの時にもブルー・オーシャン戦略の話を書きましたが、シルクドソレイユというのは、コマーシャルなどで見るといわゆるサーカスと同じように見えてしまうのに、実際に見ると全く違う印象を受ける非常に新しいパフォーマンス。
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 こればっかりは実際に見て頂かないと、感動やすごさが伝わらないと思うので、無理に文字で説明するのは避けたいと思いますが、パフォーマーの一人一人が、元オリンピックのメダリストであったり、その道のトッププレイヤーという逸話だけでも、普通のサーカスとは趣が違うのが伝わるのではないかと思います。
 今回のコルテオでは、ドラリオンに続いて二回目の鑑賞ということで、比較的冷静に鑑賞することができたのですが、今回改めて感動したのが、そのシルクドソレイユを作り上げている人たちの一流ぶりの徹底さ。
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 今のやつが最後の大技かな?と思うような大技の後に、さらにそれに一工夫、二工夫加えた大技が飛び出してくる1つ1つの演目のすごさというのは言うまでもないのですが。
 今回、特に印象に残ったのは、いわゆるシルクドソレイユらしさを表現している典型的なアスリートたち「以外」のパフォーマーたち。


 コルテオは、東洋のエキゾチックな雰囲気のドラリオンとは異なり、いわゆるサーカスらしいサーカスをベースにしたパフォーマンス。
 なので、典型的な、ふとっちょの団長らしき人だったり、いわゆる「小人」的な人だったり、「巨人」的な人だったりと、およそアスリートとはほど遠い人たちが、演目の合間合間に出てきます。
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 で、この人たちって、いわゆる芸人的な位置づけなんだろうなーとか、気を抜いてみていると。
 ふとっちょの団長が、驚くほど綺麗な音色の口笛をソロでかなでてしまったり。
 いるだけで存在感充分な巨人の人が、意外なほど繊細にグラスで音楽をかなでてしまったり。
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 小人の人たちに至っては、おっとどっこい普通に、超バランスなメインの演目のパフォーマーだったりします。
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 日本人のパフォーマーもいたのですが、てっきり日本講演用の通訳的な位置づけかなと思ったら、これまた本当に失礼な勘違いで。
 普通に最後の締めの集団鉄棒で、他のパフォーマーと一緒に大技を決めてらっしゃいました。
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 そんなことに気がついてから冷静に見てみると、シルクドソレイユの舞台って、本当に隅から隅まで細部にこだわっているんですよね。
 紙吹雪を使った演目があって、ちらかった紙吹雪どうするんだろうと思っていたら、モップがけ自体も一つのパフォーマンスにしてしまっていたり。
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 何気なく舞台に立っている天使たちも、実は日本で言うところの黒子的な役割があって、踊りながらさりげなくパフォーマーに小道具を手渡していたり。
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 最後の最後で、本当の黒子であるスタッフの人たちが壇上を駆け抜けて顔出しするような要素もありましたが、本当に一人一人の人たちがその道のプロという意識で、ショーに貢献しているんだろうなと感じます。
 ついつい普通のサーカスとかスポーツのロジックで考えてしまうと、一番身体能力の高い人こそが「一流」であり、主役で、メインと考えてしまいがちなわけですが。
 シルクドソレイユにおいては、一人一人が必要不可欠な要素であり、だからこそが一人一人がその道のトップとして、こだわりを持って自らの「一流」の仕事を全うしているんだと感じます。
 これって考えてみたら会社とかでも本当は当たり前の話のはず。
 目立つ仕事も目立たない仕事も、その仕事をちゃんとこなしてくれる人がいないと、全てがおかしくなってしまうわけで。
 自分の中で、「一流」とかプロフェッショナルということの定義を、もう一度ちゃんと考えなければいけないなぁと。
 そんなことを強く感じさせてくれた一日でした。
 くどいようですが、シルクドソレイユのパフォーマンスは、本当にいろんな意味で価値観変わりますので、まだ見たことがないという方は是非機会を作ってご覧になることをお勧めします。
CIRQUE DU SOLEIL
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