「広告に恋した男」は、フランスの70~80年代の広告業界が振り返られている書籍です。
高広さんに勧められたので、買って読んでみました。遅ればせながら書評抜き読書メモを公開させて頂きます。
この本は日本では1984年に出版された本で、すでに中古でしか手に入れることができない状態なのですが、著者のジャック・セゲラの言葉の端々に、実は広告の基本というのは今も昔も変わっていないという事実を痛感させられることになります。
特に改めて驚くのが、この書籍にすでに「現代社会は、広告嫌悪症にかかっている」というフレーズが登場することです。
日本でこの本が出版されてからすでに25年以上がたっていることを考えると、いろいろと考えさえられるところです。
書籍の最後に著者は「ぼくは、なんのてらいものなく、広告は世界を救うと言いきれる。」と書いていますが、も震災後の広告が無いテレビやACに占拠されたテレビをみている自分にとっても、この言葉は共感できるフレーズでした。
先日日経ビジネスのコラムにエステーさんの広告らしくない広告の事例を紹介しましたが。
いわゆる利用者に嫌われている狭い意味での「広告」と、本来あるべきコミュニケーションとしての「広告」を改めて今定義し直すべきなのではないかなと感じたりします。
「広告」とは何なのか、原点に返って考えてみたい方には刺激になる点がある本だと思います。
【読書メモ】
■広告の大原則
・まずイベントを作ること
・基本に忠実であれ
■広告というのは、嘘がつけないものなのだ。
嘘をつけば処罰を受ける唯一の職業でもある。広告で二度は世間をだませない。
大切なのは、その商品を一回買ってもらうことではなく、何度も続いて買ってもらうことなのだ。広告の世界で嘘をつくことは死を意味する。
■「もし新しいこの広告の仕事で成功したければ、事実を見つけることだよ。良い商品の広告は、情報だ。だが悪い製品の広告は、中傷記事を書くのと何ら変わらない。そういう仕事は、絶対に長続きしないよ。」
■広告会社の毎日は、短編小説のようだ。ひとつが終わって、悲しみにひたっていたかと思うと、すぐに次のが始まり、新しい冒険に夢中になって、前の不幸などいっぺんに忘れてしまう。
■マス・メディアというのは、文化的なフィルターだ。情報伝達の手段としてばかりでなく、メディアその物の社会学的・心理学的リズムも同時に伝える。つまりニュースを変形するお化け鏡なのだ。
だから広告マンは。それぞれメディアの限界を十分にこころえておく必要がある。テレビは見せ、映画は証明する。ラジオは行動を起こさせ、新聞は思考を促し、ポスターは結晶させる。
■広告は、「その日のうちに摘みとる」もので、毎日が新しい一日だ。
広告が表面的なものになり、広告マンたちがただ一瞬だけを信じるのは、そのせいだろう。
■歌手はオペラの作曲、音楽家は映画、映画人は絵画というようにみなそれぞれ、専門以外の分野で名を残したがる。だが広告マンは、あくまでも広告マンであり続ける。自分の名声を求めたりはせず。自分の手がけた商品の栄光だけを望む。
■現代社会は、広告嫌悪症にかかっている。
だが世界を支配しているのは、自然ではなく、ものの本質なのだ。広告反対を唱える人たちはお気に召さないだろうが、広告は絶対になくならない。広告というのは、実用の芸術なのだ。
広告が、購買意欲をそそることをやめれば、経済活動は、停滞する。
■実業界の未来は、広告の未来でもある。だが広告の未来は、広告マンの能力次第だ。
広告のない世界は、絶対服従の世界でしかない。全体主義の国々が、それをよく物語っている。
■広告は、欲望を作り出すといって非難をうける。しかし、幸せなことに欲望を作り出せる、というべきだ!広告のエデンの園がなくなったら、人生はどうなってしまうだろう。
■フランスで最も偉大な広告マンは、シャルル・ドゴールだ。
彼は、1940年、最初の演説でフランスを勝利に導き、68年5月、最後の演説で五月革命に終止符を打った。ドゴールは、広告マンだったが、残念ながら広告マンが、ドゴール的だとは限らない。
■ぼくは、なんのてらいものなく、広告は世界を救うと言いきれる。新聞、映画、文字、音楽、絵画は、人々が語り合い、互いに耳を傾け合うために、手をさしのべている。広告も、そのひとつなのだ。コミュニケーションがあれば、平和が保たれるが、これがなくなれば、戦争になる。
広告に恋した男 ジャック・セゲラ 小田切 慎平 晶文社 1984-11 by G-Tools |