「情報の文明学」は、「情報産業」という言葉の名づけ親として知られる梅棹忠夫氏の書籍です。
欲望のメディアの話をしている際に藤代さんに勧められたので買ってみました。
書評抜き読書メモを公開させて頂きます。
40年も前に書かれた論文を中心に構成された本らしいのですが、今読んでもその本質自体は大きく変わっていないことに驚きを感じる本です。
特に個人的には、「一般に、情報産業の提供する商品を、買い手は、その内容をしりもしないで、先に金をだして買うのである」や、「情報氾濫の時代になればなるほど、情報の情報が要求される」というあたりにインターネットにおける情報産業の課題や可能性を改めて感じました。
現在起こっているネットによるメディアのパラダイムシフトの本質を、一度一歩引いて考えてみたいという方には非常に刺激のある本なのではないかと思います。
【読書メモ】
■ラジオもテレビも放送してしまえばおしまいだ。どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない。(中略)これはひきあうことだろうか
■ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。
■従来の職業のなかで放送人にいちばんよく似ているのは、学校の先生だと思う。学校の先生は、教育という仕事にひじょうな創造的エネルギーをそそぎこむわけだが、しかし、その社会的効果というものは検証がはなはだ困難である。
■一般に、情報産業の提供する商品を、買い手は、その内容をしりもしないで、先に金をだして買うのである。こういう商品は、ほかにあまりない。
■坊さんのお布施(情報の価格決定方についてひとつの暗示をあたえる現象)
お布施の額を決定する要因は、ふたつあると思う。ひとつは、坊さんの格である。もうひとつは、檀家の格である。
■情報世界というのは、これは「ないこと、存在しないこと」なんです。
そうした「情報」が相対的にたかい価値をもって、「物質」や「エネルギー」の価値がひくくなる社会へしだいに移行しつつあるのが現代であり、そのむかいつつある状態が情報社会だというわけなのです。
■単なる工業だけのためにこんな高度の教育はいりません。ところが、過剰教育をやって、目的よりはるかに上等な品質の人間を大量生産してしまった。これが情報化社会、あるいは、現代の日本の文化の原動力になっている。
■売買というのは、いつも多少のリスクをともなう。けっきょくそれを最低限にするため、メーカーの信用とか商取引の慣習が確立していけば、だんだんインチキ性の幅がせばまる。
■1963年に「情報産業論」を発表したころは、工業以外の産業がありうるとはだれもおもっていなかったんじゃないですか。
■無文字社会においては、記録すべき歴史的情報はすべて記憶にたよらざるをえなかった。特定の情報記憶者が、数千年あるいは数百年の歴史を、時間経過をたどりつつかたってきかせるほかはなかったのである。
■有文字社会と無文字社会とを問わず、電波による情報は全人類を巻き込んだのである。
■人類史における情報の問題は、すでに人間対人間のコミュニケーションの話ではなくなってきているということなのである。
■新幹線は、しだいに在来線にかわって伸長しつつあるが、それは貨物をはこばない。乗客は情報をもってうごき、あるいは情報をもとめてうごく。
■音楽会は音楽情報を売ることによって、一種の情報産業として成立するのであるが、それは情報を直接売るというよりは、座席における期待を売るという意味での、期待産業なのである。
■買う側も、損をしたと後悔しないために、情報に関する情報をあつめにかかる。情報の評価には情報が必要なのである。情報は原則的に先金制だからだ。
■情報氾濫の時代になればなるほど、情報の情報が要求されるのである。
■情報関連機器の発達をもって、そのまま情報産業の発展とよろこぶわけにはいかない。それは、みずから情報産業の成立の基盤の一画を、ほりくずしているのかもしれないのだ。
情報の文明学 (中公文庫) 梅棹 忠夫 中央公論新社 1999-04 by G-Tools |