日本の広報・PR 100年(猪狩誠也)を読むと、日本の広報やPRが独自の発展を遂げている理由を発見できるのではないかと思います。

449604773X 「日本の広報・PR 100年」は、タイトル通り日本の広報・PR業界の100年間の歴史を整理している書籍です。
 昨年のPRアワードグランプリで審査員をさせて頂いた際に献本を頂いたので、書評抜き読書メモを公開させて頂きます。
 日本の広報・PR業界は、実はアメリカのそれと比べるとかなり様相が異なるというのは、書籍「戦略PR」で本田さんも書かれていましたが、この日本の広報・PR 100年では、そういう業界構造に至るまでの具体的な歴史をかなり細かく調査されています。
 実はPRというコンセプトを日本に定着させることを推進させていたのは、広告業界の中心にあった電通の吉田秀雄氏だったり、米国でPRという言葉のイメージが悪くなった際にコーポレート・コミュニケーションズという定義が増えたりという、意外に言及されることのない話がいろいろ出てきて非常に興味深い歴史書と言えます。
 広報・PR業界の方だけでなく、企業コミュニケーションの変化に興味がある方には参考になる点がある本だと思います。
(昨日ご紹介した「次世代コミュニケーションプランニング」とあわせて読むと、日本における広告の役割と広報の役割の違いについてもなんだか考えさせられます)
【読書メモ】
■パブリック・リレーションズと言う言葉の起源
 アイヴィ・リーとともに近代PRの父と呼ばれたエドワード・バーネイズが1923年、PRについての初めての本「世論を結晶化する」を書いた時、自分の職業を「パブリック・リレーションズ・カウンセル」と名乗って以来、一般化したようである。
■コインの表がパブリック・リレーションズだとすれば、コインの裏がプロパガンダ
■日本で広報・PRに関連する言葉が現れたのは1923年、南満州鉄道が設置した弘報係とされてきた。
■宣伝と広報の違い
・宣伝=プロパガンダ
 多数の人々の態度や行動に影響を与え、一定の方向に操作しようとする意図的・組織的な企てのこと
・広報=パブリック・リレーションズ
 本来PRは、個人や集団が対立する利害関係者との間で自己修正の努力とそのための表現活動を積み上げ、健全で生産的な関係を作り上げていくプロセス全体を意味している。しかし日本などでは、実際には広告・宣伝などと同列の意味で理解されるケースがむしろ多い。


■政府は1875年、言論統制する二つの法令を公布して言論の弾圧に着手した。 
 それは同時に、自由なマスコミの存在を条件とするパブリック・リレーションズの成立を望めず、宣伝しか残らなかったことを意味するのである。
■1951年はPRが日本に導入されて後、一つのピークを迎えた年と言えるかもしれない。それはPRに関する書籍がこの年に一斉に発行されたことにもうかがえる。
■ところがこの1951年がPRがもてはやされた最後の年だったようだ。
 かなり高揚を見せ、数年を経ずして停滞したのはなぜか?
 結論から先に言えば、PRの理念が先行し、それを裏打ちする技術・技法を受け入れる条件が日本社会にも企業にもなかったことであろう。
■1946年2月、電通の「当面の活動方針」の第二に「パブリック・リレーションズ(PR)の導入・普及」を掲げた吉田は、その研究を東京本社総務部長・田中寛次郎に命じるとともに、自らも積極的にPR領域の拡大に乗り出していく。
■1949年3月、日本広報協会(PRISA)が、吉田の肝いりで発足する。我が国初のPR団体の旗揚げである。
■1958年4月に、福田太郎によりジャパン・パブリック・リレーションズ(ジャパンPR)が設立され、第一世代のPR会社の先陣を切った
■つぎつぎに現れる新製品・新技術の情報が必要になるし、企業サイドではその情報をメディアに提供する部門が必要になる。そこで両者をつなぐPR会社も生まれた。
■企業ジャーナリズムのもうひとつの形は広報誌(PR誌)の分野である。高度成長の過程の中で、広報誌はかなり刊行されている。60年代に入ると、かなり知的レベルの高い文化誌といった広報誌が生まれてきた。
■1966年頃、すでにアメリカの企業ではPRの組織はトップマネジメントに直属し、80%が社長に直属しているとアメリカPR協会は明らかにしている。日本ではこの時期その多くは総務部に属していた。
■高度成長の活気のなか、58年頃から63年頃にかけて本格的なPR会社がつぎつぎと設立された。草創期のPR会社と同質の特徴を持つ国際派に加えて、国内での業務を中心とする”国内派”が台頭した。
・国際派の特徴は、国際感覚と語学力に優れていることである。創業者を見ると、長年、欧米に居住し、研究生活、商社活動、市場調査、海外のテレビ局などのマスメディアの仕事をしたり、終戦後にGHQの通訳をするなどのキャリアを持っている。
・国内派の創業者は、日本の新聞社、通信社、雑誌社などジャーナリスト経験を経て、PR業に転身した人たちが多い。
■広報部門の名称は消費者対応の窓口として設置されたもので、それ以前に広報部門が設立されていることはおおいにありうるが、70年代は60年代のマーケティング型の広報部門の設立に対比して消費者対応型の第二の広報ブームが起きたといえる。
■当時、パブリック・リレーションズという言葉に加えて、パブリック・アフェアーズということが主張された。単なるマスコミ対応では不十分で、地域や市民、社会、環境、行政など公共的なステークホルダーとの関係の改善を行っていかなければならないというものである
■60年代半ばから70年代半ばという10年間で俯瞰すると、業界としてのまとまりはなく、少数の老舗企業対多数の新興企業、または少数の比較的大企業対多数の小企業とが併存していたのが実情であった。
■アメリカでは、74年、時のリチャード・ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」に際し、「真実を覆い隠そうとして”Let’s PR it”などという言葉を連発した」という話が流布して以来、PRと言う言葉のイメージが悪くなり、パブリック・リレーションズの部門名をコーポレート・コミュニケーションズあるいは単にコミュニケーションズに変えた企業が多いといわれたりした。
■広報部門の悩みは、スタッフが少なく広報体制が不十分、かつ予算が少ないというのはそれ以前も以後も一貫している。スタッフは3~5人、6~10人といった規模の会社が80年代を通じて5割以上を占める。広報予算にしても対売上高比率で1%以下が4割。
■企業リスクの原因として、企業トップ自身の3割が「従業員・役員の不祥事」を挙げており、コンプライアンスは90年代を通じて気を抜けない広報課題であった。
■コンプライアンスの裏が危機管理の世界である。企業の不祥事が多発した90年代はまさに危機管理広報の時代といってよい。
■90年代半ばからインターネットが広報ツールとして急速に浮上する。
 ホームページの開設とイントラネットによって広報のあり方は大きく変容していく。
 しかし、体質はある日突然変わるものではない。たとえば、ホームページを開設したはいいが外部からくる問い合わせに対して、ホームページの広報担当者は、該当部署の責任者に「回答」を得るために奔走する、といった笑えない現象がそこかしこに現出した。

449604773X 日本の広報・PR100年―満鉄からCSRまで
猪狩 誠也
同友館 2011-04

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