当事者の時代 (佐々木俊尚)

4334036724 「当事者の時代」は、グーグル – Google 既存のビジネスを破壊する」や「電子書籍の衝撃」などの著書で有名な佐々木俊尚さんの書籍です。
 献本を頂いたので、書評抜き読書メモを公開させて頂きます。
 佐々木俊尚さんと言えば、「2011年新聞・テレビ消滅」や「仕事するのにオフィスはいらない」など、インターネットによって既存産業がどう変わるかという本を書いている印象が強いと思いますが、この本でテーマとなっているのは、マスメディアそのものと、マスメディアによって影響を受けている日本社会です。
 佐々木俊尚さん自身が日本のマスメディア報道の中心である新聞記者の出身であり、この本はそんな佐々木さんの新聞記者時代の過去の経験と、ジャーナリストとして最新のネット事情を見聞きする最近の経験が折り重なって生まれた本だと言えます。
 あとがきによると、昨年の東日本大震災が契機となり、この本を書き上げることになったようですが、新書とは思えないボリュームに驚く方も多いのではないかと思います。
 かなり哲学的な表現も多く難解な本であるとも言えますが、現在のマスメディアと日本社会の関係を俯瞰的に考えてみたい方には参考になる点がある本だと思います。
【読書メモ】
■新聞記者はたいてい、みずからをアウトサイダーだと思っている。
 ヒロイックに「時代の流れにあらがう少数派」と思い込んでいるのだ。
■新聞記者と警察幹部に「対等な関係」といったものが存在するわけではない
 新聞記者の側は特ダネを望み、警察幹部や検事の側は情報コントロールを望む。お互いの望むものがまったく異なっている。きわめて「非対称」な関係なのだ。
■記者と警察当局がつくる三つの共同体
・友愛のない共同体
・二重の共同体
・広場のない共同体
■閉鎖的共同体から派生的に生まれてきたハイコンテキストは、長い歴史のなかで日本社会の多くの場所に浸透している。
 その結果、あたらしく生まれた共同体であっても、「ハイコンテキストであること」という形質が後天的な性質としてかぶせられてしまう、という逆転的な現象が起きてしまっている。


■メディアの四象限
・広場+友愛のメディア:ミクシィのコミュ、グリー、モバゲー(企業社会・農村)
・フィード+友愛のメディア:フェイスブック
・広場+情報のメディア:2ちゃんねる(記者会見共同体)
・フィード+情報のメディア:ツイッター、Google+(夜回り共同体)
■市民運動は新聞社にとって使いやすいツールでしかない
 権力に対するカウンターとして、弱者の声のシンボルとしてそこに存在していてくれる。客観的中立報道の立ち位置から外れられない自分たちの代わりに、反権力的な意見を代弁してくれる。それらを記事に配置することによって、権力機構の行うさまざまな制作の報道にバランスが取れるという大きなメリットがあると言うことなのだ。
■マスメディアの好きな市民を<庶民>と呼び、市民運動の主体となっているような市民を<市民>と仮に呼んでみる。
・<庶民>は正義や国家を論じないマジョリティ
・<市民>は正義や国家を論じるマイノリティ
・マスメディアが<庶民>を代弁する。
・<市民>がマスメディアを代弁する。
 これは実にねじくれ、ややこしい構造だ。
■マイノリティへの憑依。
 憑依することによって得られる神の視点。
 神の舞が演じられる辺境最深部。その神域から見下ろされる日本社会。
■<マイノリティ憑依>することによって得られる最も大きな果実。それは被害者ではない人たちを全員、加害者に押しやれてしまうこと。自分たち被害者以外はすべて加害者として断罪できてしまうこと。そういう気持ちよさなのである。
■「支配する側と支配される側というような従来の対置の仕方、あるいは多数派と少数派という分類の仕方、そこで起きるドラマにわれわれは引かれて、そこで少数派の側に立って状況をとらえ、ただ描き出すだけでなく、自分も少数派でありつづけようとして書くという姿勢がずっとあったと思うんです」(斉藤茂男 共同通信の記者で「飽食窮民」を連載)
■エンターテイメント性という罠が、<マイノリティ憑依>と総中流社会をきっちりと接合させてしまった
 だから総中流社会という意識が定着していくなかで、<マイノリティ憑依>は総中流メディア空間におけるジャーナリズムの基本パラダイムとして浸透していったのだ。
■社会のインサイドからの目線は、つねにフィード的な濃密なコンテキストというパラダイムに支配され、そこにはオープンで開かれた社会という視点は欠如している。
 社会のアウトサイドからの目線は、つねに幻想の市民という<マイノリティ憑依>に支配され、決して当事者としての意識を持ち得ない。
 そしてマスメディアは、この濃密なコンテキストの共同体と、<マイノリティ憑依>という二つの層の間を行ったり来たりしているだけだった。
■このメディアの<マイノリティ憑依>に日本社会は引きずり込まれ、政治や経済や社会やさまざまな部分が侵食されてきた。「少数派の意見を汲み取っていない」「少数派が取り残される」という言説のもとに、多くの改革や変化は叩きつぶされてきた。
 そういう構造はもう終わらせなければならない。
■河北新報の震災取材に見る当事者性
「取材に行く、話を聞く。インタビューして話を聞いていると、そこから何かの物語を考えようとする以前に「僕もそうなんですよ」という言葉が先に口をついて出てしまう」(河北新報編集委員 寺島英弥)
■河北新報の記者たちは<マイノリティ憑依>するのではなく、被災者と同じ視点、同じ立ち位置から無数の物語を背負い、その物語をおたがいに共有している。
 河北新報の記者たちは、被災者たちの希望を描くだけでなく、実は自分自身の希望も求めている。彼らの書く記事には、だから被災者の語る希望の言葉がよく登場する。
■当事者であることを維持しつづけようとする人たちと、当事者であることを放棄して<マイノリティ憑依>を延々と繰り返しつづける人たちのあらたな格差の幕開け
■この分断がいったい何を生み出すのかは、まだわからない。
 しかし一方で、インターネットのソーシャルメディアは人々を否応なく当事者化していく。参加するものを第三者の立場に居座らせることを許さず、すべての人々を言及の対象にしてしまい、あらゆる存在をメディア空間のなかへと巻き込んでいってしまうからだ。
 そのようなソーシャルメディアの当事者性は、<マイノリティ憑依>のパラダイムをどこかで突破する可能性も秘めている。

4334036724 「当事者」の時代 (光文社新書)
佐々木 俊尚
光文社 2012-03-16

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